生沼家の何代目が商業活動を始めたのかは定かではありませんが、明治初年度に旧上三川村で地主総代なっていることから、江戸時代後期には、すでに地位を確立していたものと考えられます。生沼家は肥料商・質屋業などで財を成す一方、早い段階での電話の設置や電力の導入などに尽力し、町の近代化に大きな影響を与えました。生沼家に残された明治期の銅版画は、当時の生沼家の様子をよく描いています。
- 位置図(基図:明治19年調製迅速図)と配置図
銅版画(東京・精行舎製)
生沼家に伝わる明治期に作成された銅版画には、当主「生沼權一郎」が「上三河村大字上三川」で「太物・肥物・荒物・質屋」※を営む生沼家の店構えが描かれています。東側の大通りに面した店舗のほか、養蚕を行っていたとされる建物、その他いくつかの蔵、井戸、門、塀などが描かれており、現在の建物と比べると幾度かの増改築が行われていたことが伺えます。また、南側に隣接する道路は、石橋と真岡を結ぶ旧道であり、人々が行き交う様子も描かれています。※太物(ふともの)は綿や麻織物、肥物(ひもの)は肥料、荒物は日用雑貨、質屋は金銭貸付のこと。
国登録有形文化財(平成18(2006)年3月20日登録)
店舗及び主屋
上三川町大字上三川字大町 大正3(1914)年築 木造2階建 瓦葺 建築面積187m2町中心部の角地に建つ商家です。桁行、梁間とも7間半とし、切妻造、平入の南北棟の北端に、東西棟の入母屋造の2階部を載せた特異な構造です。平側を出桁造とし、黒漆喰仕上げの南妻には大型の窓を開き、銅板葺の庇を付けます。角地の街路景観を形成し際立った存在です。
土蔵
上三川町大字上三川字大町 大正9(1920)年築 土蔵造2階建 瓦葺 建築面積28m2店舗及び主屋の北側に隣接する文庫蔵です。桁行5.2m、梁間4.3mの切妻造、平入で、2階は街路側窓に掛子塗り戸を設けます。1階の外側は目地付モルタル塗洗出しとし、2階の鉢巻及び壁面は黒漆喰で仕上げ、腰を海鼠壁風とする外観を呈しています。
- 見取図
- 敷地内の写真
生沼家関連年表
元禄11(1698)年 | 生沼家初代当主が生まれる。 |
明治4(1871)年 | この年の上三川町図に二番組組頭兼伍長生沼権平の記載がある。 |
10(1877)年 | 宇都宮伝馬町白木屋にて第1大区1小区の地主惣代生沼権一郎らが参加し、県・郡田畑収穫量の示達と模範組合及び各村の収穫量を決定することを命じられる。 |
12(1879)年 | 第1回栃木県会議員選挙が行なわれ生沼権一郎が当選する。 |
30(1897)年 | 河内郡郡会議員選挙が行われ、生沼権一郎、大地主議員となる。 |
32(1899)年 | 河内郡唯一の銀行として上三川銀行が開業する。(頭取:馬場宗司、取締役:生沼権一郎・松本四郎左衛門・黒須陶一郎) 河内郡会議員選挙が行われ、生沼権一郎が当選する。 生沼家においてこの頃から肥料販売が始まり、従来からの搾粕、米糠、豆粕のほか過リン酸などの化学肥料を販売する。 |
42(1909)年 | 生沼権一郎が第4代上三川町長に就任する。 |
大正2(1913)年 | 町内の生活困難の人々を助けることを目的に生沼共済会を設立する。 |
3(1914)年 | 店舗及び主屋を建築する。 |
5(1916)年 | 生沼権一郎の総所有土地面積120町歩を超える。 |
9(1920)年 | 土蔵を建築する。 |
13(1924)年 | 生沼家所有の田48町9反、畑27町8反、関係小作人250戸となる。 |
14(1925)年 | 金融業及び土地の売買交換賃貸を目的とする生沼同族合名会社を設立する。執行社員は生沼権一郎が就任する。 |
昭和7(1932)年 | 生沼家、栃木県の貴族院多額納税者議員互選人の30番目となる。この年納付の直接国税1,438円。 |